令和7年5月、揖夜神社は輝かしい「正遷座祭」を斎行いたします。
正遷座祭とは、御神体を新たな社殿へと遷座する儀式です。神聖な伝統に則り、厳かに神事を執り行います。
御鎮座についての詳細は不明ですが、『古事記』神代巻には「伊賊夜坂(いふやざか)」についての記述があり、『日本書紀』齊明天皇五年(659年)の条に「言屋社(いふやのやしろ)」、『出雲国風土記』に「伊布夜社(いふやのやしろ)」、『延喜式神明帳』に「揖夜神社(いふやじんじゃ)」の記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた古社であることは疑うべくもありません。
神社に所蔵している棟札・古文書によれば、戦国時代頃から「揖屋大明神」「揖夜大社』「揖屋大社」と称されていた様です。
古より朝廷からの崇敬が厚く、「三代實錄」には清和天皇の貞観九年(867年)に「揖屋神従五位上」、同十三年(871年)に「揖屋神正五位下」の御神階の記録があります。特に出雲国造奉仕の神社としてはやくより別火の職が定められていました。
もとより歴代武将の崇敬も厚く、大内義隆は天文十二年(1543年)に太刀・神馬を献上し、尼子晴久は同二十四年(1555年)に出東郡氷室庄の内百貫の土地を寄進し、毛利元秋は天正十一年(1583年)に社殿を建立しました。堀尾吉晴は慶長六年(1601年)に揖屋村の内の四十石の土地を寄進し、堀尾忠晴は元和弐年(1616年)には社殿を再建し、京極忠高は寛永十一年(1634年)に旧領(四十石)を安堵し、次いで同十四年(1637年)社殿の修造を行っています。さらに松平氏も、初代直政が寛永十五年(1638年)に旧例のとおり
四十石を寄進し、三代綱近は、明暦三年(1657年)の検地により出石十二石一斗三升六合を加えた五十二石一斗三升六合が神領とされました。社殿の営繕は御修復社として松江藩作事方の手で行われ、遷宮には藩主の代参がありました。
明治5年2月郷社に列し、同40年4月28日勅令による神饌幣帛供進神社の指定を受け、大正15年11月22日縣社に昇格しました。
当社は出雲国造との関係が深い「意字六社」(熊野大社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社)の一として、江戸時代から「六社参り」の参拝者が絶えず、御遷宮には今でも国造の御奉仕があります。
江戸時代の書物『出雲神社巡拝記』には、揖屋大明神の項に「意字六社とて有其ーツ也、六社とは当社及、熊野大社、大庭かもしの社、山代いざなぎの社、佐草ノ八重垣、大草の六所神社是也、巡拝の人 格別の社なれば一々心をとめて拝礼すべし」と書かれています。
「二重亀甲に剣花菱」(出雲大社と同じ)